タケチャンのblog

今日がだめなら明日があるさ、明日がだめなら明後日が・・・。何処まで行っても明日がある。

カテゴリ: 美術、芸術、写真

3月23日から始まった内房総アートフェスは、千葉県誕生150周年記念事業として、
会場が、市原市、木更津市、君津市、袖ケ浦市、富津市の、広域芸術祭である。


内容は盛りだくさん、内田未来学校も会場である。
5月26日まで。火、水定休。(4月30日、5月1日は除く)10時~7時まで。


QRコードでどうぞ。

芸術祭               おもてなしプログラム

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内田未来学校での展示作品は上の写真の右上と右中、赤枠。




市原市では、期間中おもてなし交流プログラムを、閉校になった旧内田小学校で、開催している。こちらも盛りだくさん、是非お立ち寄りいただきたい。


3月24日、雨がやんでちょうど良い季候の中、午後寄ってみた。
内田未来学校のおもてなしコーナー。

一息ついてまったりするスタッフ。

作品をちょっとだけ。

巨大な○○の上の未来学校?


二教室分の巨大な??が、大きく息をしている!


この校舎が使われていた頃のスライド写真も常時上映。


新鮮な農産物の他、手作り品や、お菓子類も所狭しと並ぶ。

    

 

          




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市原市内在住で活躍されていらっしゃるベテラン写真家8人による写真展を鑑賞してきた。
8日までで既に終了しており、アップが遅くなった。

      

出展者とテーマはポスターの最下段↑。

夢ホールのついたて4列に、一人一面を使っての展示で、素晴らしい作品が並ぶ。

撮影場所は地元が多いが、作者によりそれぞれである。場所非公開の作品もある。
以下、掲載の作品はランダムに撰んだだけで特別な意図は無い。


ポスターに使われた作品。


この日は、内田未来楽校の事務局長と一緒である。実は宿地区のテレビ共同聴視設備の責任者でもある彼からの依頼で、先週の雷で被害に遭ったお宅の宅内側修理を終えて、誘われたのである。同じ日の雷で、帰れマンデーで紹介された食事処の大型冷蔵庫も被害を受けたのであった。
写真展の最終日であることを忘れていて良いタイミングだった。


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うだるような暑さが続く中、内田未来学校で開催中の「俺たちの芸術祭」は
活動開始してから丁度10年と言うことで、15日~17日まで千葉さんの点描油絵、事務局長と、会員のKさんの写真展、理事長と、その師匠の焼き物展が開催中であった。


そのなかで、臨時結成の「内田CONMET’S」のコンサートが16日あった。
朝早くは涼しかったが、仕込みが始まれば、すぐ汗だくで、アナログアンプの重さが身にしみる。


Kさんの奥さんのウクレレと、ご主人のベース、そこにのど自慢の6人が加わり、コンサートとは言うものの、のど自慢、カラオケのようなもの。最後の内田小校長先生も駆けつけて参加である。ビクター専属のSくんは、喉を治療中で、無念の見学である。


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それでも最後は、「あしたがあるさ」「ブルーシャトー」を参加者全員で合唱、冷房も無い中であったが、楽しい一時をすごせた様である。


表では、内田未来農園で収穫してきた野菜類をジュースにして楽しんでいた。


午後は、終了時刻まで、涼しい風が通り抜ける庇の下で、マッタリとした時間を過ごした。
水田は水が無く、すっかり干上がっている様子で、一雨欲しいところであるが、九州地方に続いて、この日は東北秋田方面が、水害で酷いことになっていて、自然は上手く人間に合わせてくれる事も無く、厳しいのである。


理事長は、焼き物の師匠と、リハーサルだけで、本番は辞退。


屋内でで直射日光も無いのに、気温高騰で、動画を撮っていたカメラが熱暴走を起こし、せっかくの場面が撮れなくなってしまった。
カメラやスマホの冷却装置が出回り始めているが、こんな事態になろうとは想像も出来なかった。

2日連続で映画を見てきた。場所は、どちらも千葉市生涯学習センター。
13日は、日本初の女医、荻野吟子の生涯「一粒の麦」
14日は韓国映画、劇場未公開「雪道」の2本である。


前者は山田火砂子監督作品。
舞台挨拶が予定されていたが、時期作品製作中につき多忙で、ビデオ挨拶となった。


      


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前回見た、女性解放に尽力した矢島楫子とも時代が重なる人物である。

 山田監督も、農夫として登場している。



後者は戦争と暴力に苦しむ女性を描いた作品。従軍慰安婦と男尊女卑の二つがテーマで難しい問題であるが、若い女優達の演技が光る名作である。

      


タイミング良く会場のロビーでは千葉空襲写真パネル展が開催中であった。

      


       

戦後生まれなので、直接戦争は知らないが、記憶に残る写真はある。上、中断左の千葉駅。屋根が焼け落ちたままの黒焦げの渡線橋が昭和30年代まで残っており、駅の屋根下に設置された街頭テレビに群がった人で駅前広場がが埋まった光景が目に焼き付いている。

            

中断、千葉医大病院。建物が現在も残っており、最初に行ったのは、4~5才の頃、母に連れられて、入院中の父を見舞った時だった。
後年就職してからは仕事で出入りしていた。又長女が頭蓋骨陥没骨折で入院したのもここだった。エレベーターが、折りたたみ式扉で、矢印の回数指示のかなり古い物だった。
東京オリンピック当時設置されたと言われる女性用の立ち小便器が一つ、長いこと残されていたが、普通に見ることが出来たのは、実用では使う人が無いため、展示用として保存だったのか、妙に印象に残っている。
その後研究棟として現在に至っている。


千葉市は軍都であったので、現在でも色々名残が残っている。下は気球聯隊の巨大倉庫、
民間の倉庫として、平成の世まで残っていた。(中段左)

         


又鉄道連隊があったので、今でも千葉公園内に訓練用のトンネルと橋脚が残っている。
昭和40年代まで、公園から千葉駅方面への道に、線路も残っていた。

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